ワトスン博士には同情を禁じえません。
なぜって、にろくじちゅう、名探偵といっしょに過ごすなんてやりきれないじゃありませんか。
相手はパッと見てわかってしまう。こちらのわからないでいることを、即座に見て取って涼しい顔をしている。
口惜しいじゃありませんか。
しかも、その理由理屈をいちいち説明してくれやしない。
説明?そんな必要あるのかね、あたりまえのことなんだよ、なぜ説明がいるのかね。
そんなふうに人を煙に巻く。いやでも劣等感をかきたてられます。
たいてい名探偵というのはそんな感じだから、あまりいい感じのする人物ではありません。
シャーロック・ホームズなんか、このタイプの典型です。
シャーロック・ホームズにくらべれば、本邦名探偵の一人、金田一耕助なんかは、目から鼻に抜けるという印象がないだけ人当たりがまだいいほうです。風采があがらないというあたりも嫌われない要因でしょう。ただし、金田一耕助の場合、舞台に登場したあとも殺人事件が続けて起こり、探偵にしては、防御率はかなり悪そうなのですが。
コナン・ドイルがシャーロック・ホームズをはじめて登場させたのが、『緋色の研究』(創元推理文庫 阿部知二訳 1960年初版 今回は1991年56版を使用)です。
ホームズはワトスンと初めて出会う場面、最初の言葉がこれ。
「はじめました」相手は思いがけない強い力で私の手をにぎりしめながら、うちとけた様子で話しかけた。「あなたはアフガニスタンへ行ってこられたのでしょう?」
「それが、どうしてわかりましたか」私はびっくりしてたずねた。
「いや、たいしたことではありません」彼はこういって一人でうれしそうに笑った。「それよりも当面の問題は血色素ですよ。この発見の重大さはあなたにもきっとわかってもらえるでしょう?」(P15)
初対面の人に接する態度としては、どんなものなのでしょうね?
だしぬけに、アフガニスタンに行っていたことを指摘しておいて、なぜわかったのか訊ねているのに、一人でうれしそうに笑って「たいしたことではありません」とはどういう言い草でしょう。
この謎解きは少し先で明らかにされるのですが、似たようなシーンはこの小説のなかで何度かでてきます。
ローリストン・ガーデン三番地でアメリカ人の死体が発見され、警察の依頼に応じて、ホームズは事件現場へ出向きます。死体や現場の状況をこまかく観察したのち、二人の刑事が訊きます。
「意見を聞かせてください」二人が異口同音にたずねた。
「ぼくがあえて助言がましく口をきくと、横から君たちの手柄をうばってしまう結果になりませんか」私の友は答えた。「君たちですでに着々と成果をあげておられるのですから、第三者が口出しするなんて、くだらないことですよ」彼がそういったときの声には、たっぷり皮肉がはいっていた。(後略)(P49)
名探偵ときたらどこまでひねくれているのでしょう。
素直に求められた意見を話せばいいものを、なんという皮肉なものの言いよう。名探偵とは必然的にシニカルな性格に生れつくのでしょうか。いやみなことに、ホームズは立ち去り際に、言い残すのです。
「さあ、ワトスン君、出かけましょう」と彼はいった。「ひとつそこを訊ねてみましょう。それから参考になりそうなことを一つだけ言っておきますがね」と二人の刑事のほうを向きながらことばをつづけた。「これは他殺事件で、犯人は男ですよ。壮年の男子で、身長六フィート以上あるが、身長のわりに足が小さく、先の角ばった粗末な深靴をはき、インドのトリチノポリ葉巻をすっています。彼は四輪の辻馬車で被害者といっしょにここにきているが、その馬は右の前足だけ新しい蹄鉄をつけ、あとの三個は古い蹄鉄をつけている。それから犯人はたぶんあから顔で、右手の指の爪を恐ろしく長くしている。ごくわずかな特徴にすぎないけれど、これでも何かの役に立つでしょう」(P50)
ああ、なんと嫌味な男なのでしょう。
さっき意見を求められたときに、すんなり答えればいいものを去り際になって、「ひとつだけ言っておきますがね」といって、一つどころか、六つも七つも手がかりを立て板に水のごとく弁ずる。まったく、名探偵はイヤな性格の持ち主です。
とはいっても、名探偵が推理するはなから、そのいちいちを解説していたら推理小説にはなりません。名探偵は、ぼんくらな警察や助手を、置き去りにして、先走るから、いったいどうなっているのだ、この先どうなるのだろうと、読者はその後をついていこうという気にもなるのです。名探偵はしばしば、いやまだ確信が持てないから、とか、もう少し証拠を集めてからだ、なんて理由で真相の解明を先延ばしにします。読者の興味をそこねない程度に名探偵は少し先を走るのです。名探偵だからこそ許されるのです。これと同じことを我々と同じ凡人がしたなら、おまえ、ええかげんにせえよと言いたくもなることでしょう。
名探偵はイヤなやつです。でもそのかわり、常識には欠けます。シャーロック・ホームズは、地球が太陽のまわりをまわっていることすら知らないのです。そんな非常識な男だからこそ、凡人は、あいつは変人だ、変人だから仕方ない、と納得できるというものです。
平凡な警察の推理は外れます。助手の推理も見当違いです。『緋色の研究』では新聞記事も的外れな推理(というか、憶測)をします。
デイリー・テレグラフ紙は「政治上の亡命者かまたは革命家によってなされたものである。アメリカには社会主義の支部が無数にあるから、被害者はおそらくその不文律をおかして、そのために追いつめられたにちがいない」とし、スタンダード紙は「自由党政府のもので、この種の無法な残虐行為が発生する、民心の不安とそれからきたる権威の弱体化とが、その原因となっている」とし、デイリー・ニューズ紙は「政治的犯罪事件である点について疑いがない」といづれも、政治色の強いとらえかたです。
物盗りや怨恨、情痴、金銭がらみは一切でてきません。
『緋色の研究』は1886年に執筆され、その翌年の発表、舞台は1881年に設定されているそうです。
この時期、外国人が殺される犯罪というと、政治がらみだというムードがあったのでしょうか。
もちろん、新聞の憶測は憶測であって、真相には遠いのですけれど。
しかし、やはり、ホームズはいけません。
いきなり、犯人を指摘してしまうのですから。それが名探偵の仕事とはいえ、推理小説のマナーとしてどうなのでしょう。
ミステリでは、読者に対して、すべての手がかりを誠実に公正に提示しなければいけない。
このルールを『緋色の研究』は守っているのか疑わしい。これで、真犯人をみつけろとは、無理な相談ではありませんか?
ただ、『緋色の研究』は大きく前半後半にわかれていて、後半部分はミステリらしからぬお話です。訳者阿部知二は「解説」で「やや古めかしいかもしれないが、それはそれなりにおもしろい」と書いていて、確かに、なにやら古い冒険譚のよそおいです。このあたり、確証はないのですが、イギリス娯楽小説の伝統の影を感じます。このあたりは、きっと専門家による研究がすでになされていることでしょう。
なにしろ、シャーロッキアンなるものまで存在する、ジャンルです。
今回、初めてコナン・ドイルを読んだ素人なんかより、ずっと詳しく、深い読みが示されているはずです。