宮部みゆきは遠くから来る。
そんな印象があります。
人物にしろ、事件にしろ、その背後背景周辺から描いていく。
たとえ脇役であっても、脇役としての役割をこえて、その人物の人となりを描写する。
事件とは密接な関係がなさそうな、しかし印象的なエピソードも織り交ぜる。
そんなわけで、どんどん人物が事件が生き生きとする。厚みを増す。
その手法が最も成功した例のひとつが本書です。
傑作の誉れ高い『火車』(新潮文庫 平成10年)は、再読してもその面白さはまったくかわりません。
おもしろさ、と言っては言葉の使い方が安易かもしれません。この小説は読み進むにつれ、脳髄がびりびりと震え、背筋のぞくぞく寒くなります。静かな迫力をたたえた小説です。
ストーリーは単純です。
探偵ものの定番、人探しです。失踪人探し。
探偵役は休職中の刑事。失踪者は、その親類の婚約者の女性。
そこから話は思わぬ方向に進みます。
ベストセラーですし、この程度は書いてしまってもいいでしょうが、その女性はカード破産の経験者でした。
カード破産を扱っているというところから、『火車』を社会派的なミステリと目する向きもあるようでしが、到底そんな枠におさまるような小説ではありません。
もっともっと、人間の暗部にまで届くようなテーマをこの小説は抱えています。
失踪しているのですから、この女性は姿を消しています。
その足取りを読者は探偵役といっしょに追うことになります。主人公は行く先々で話を聞きますが、先にも書きましたように、作者は登場人物をたとえ脇役であっても入念に描きます。事件の周囲を丹念に描きます。描かれないのは、失踪した女性だけです。この女性だけは、直接描写されることはありません。その周辺を念入りに描き、真ん中はすっぽりと空虚です。そこを読者は想像力で埋めていく。いやがうえにも想像をかきたてられます。
この小説の特筆すべきは、事件が起きているかどうかすらわからないということです。
死体は出てきません。
凶器もありません。
犯行があったのかどうかすら確かではありません。
物証はなにもないかわりに、状況証拠だけはありあまるほどそろっている。
これもまた読者の想像を刺激してやみません。
姿を見せない一人の女性が、本当にそんなことをやってのけたのか。どうして、こんなことになってしまったのか。いったい、彼女は何を思ってここまでのことをしたのか。
『火車』が直木賞を逸したとき、この女性の人物像がはっきりしないことをキズとみた選者がいたように思うのですが、はっきりしないからこそ底の知れない恐ろしさが生まれているのです。
なにもかもあけすけに書いてしまうことで、かえって小説の興をそぐことが多い中、本作はまるでちがいます。『火車』は周辺を入念に書ききって、肝心の人物をシルエットとして見せています。
シルエットは不気味です。
顔が見えないから不気味です。
その周囲が明るく照らし出されているだけに、シルエットは人のかたちをした闇です。
『火車』の失踪した女子はひとがたをした闇だからとてもこわい。火とひとりをそのような存在にしてしまった事件も同様にこわいのですが、その真相が闇に包まれているだけになおのことこわい。
『火車』は文庫本で500ページを越える分量ですが、このあとにこそ物語は続きます。
そして、この背後にこそ物語がひそんでいます。
しかし、作者はそれを書かない。
事件も犯人も描くことなく、闇のなかにつきおとし、かわりにシルエットとして読者に差し出してくる。
めったにこのような推理小説はありえませんし、それをなしとげて『火車』はまぎれもなく傑作です。